「鎌倉散歩」 (その20)   得田 皓則 

古都鎌倉の地形と切通(きりどおし)

 古都鎌倉はご存じのように、三方を急な山に、一方を海に面しておりますが、その地形に応じた独自の都市がつくられました。

 治承4年(1180年)武家政権の鎮護のため、「鶴岡八幡宮」が鎌倉の平坦地北側、最も奥の丘に創建され、建久年(1191年)に上下両宮として整備されました。鶴岡八幡宮は都市の中心としての役割を担い、その参道であり、由比ヶ浜まで南北に結ぶ「若宮大路」が都市の基軸線となりました。

 周囲の山には稜線を掘り下げて「切通」という交通路が開かれました。切通周辺には政権担当者一族の屋敷がつくられ、交通路の支配と防御の拠点となりました。

 海上には我が国で始めて「和賀江島」という築港が築かれ、海上交通の拠点となりました。

(湘南工科大学と鎌倉市が作成した世界遺産登録推進の資料「武家の古都・鎌倉」より。鎌倉市は世界遺産登録をめざして活動しております。詳細は鎌倉市のHPをご覧下さい

 都市の発展と共に、平地の少ない鎌倉では、谷戸部(丘陵にひだのように入り込んでいる谷の一つ一つが谷戸と呼ばれる)の開発が進みました。谷戸部を造成した階段状の人工地形の垂直に切り落とした人工的な崖を「(きり)(ぎし)」といい、切り開かれた平らな土地を「平場」と言います。また、この切岸を利用してその下に「やぐら」がつくられました。やぐらは岩窟を指す鎌倉地方の方言で、中世横穴式墳墓の一様式です。埋葬のための墳墓窟と供養の場としての仏殿という二つの機能を備えています。鎌倉見物に来られると、至る所で「やぐら」を見る事が出来ます。

 13世紀後半以降、この谷戸部を切り開いた階段状の地形に「建長寺」次いで、「円覚寺」が建てられました。先にご紹介した浄光明寺も規模は小さいですが、このような地形につくられております。

 さて、鎌倉と外部を結ぶ道が「切通」ですが、俗に「七口」と呼ばれる七つの切通があります。外部との交通路でありますが、敵の侵攻から鎌倉を守るうえで重要な拠点でもあります。現在でもほぼ昔のまま残る切通もあり、殆どが国の史跡に指定されております。

極楽寺坂切通 極楽寺を開創した忍性が開いたと伝えられる。坂の下から腰越、片瀬を通り、東海道に通じた。鎌倉から京都に至る大切な道でもあった。太平記にも新田義貞がこの道から進入を図ったが防備は固く進入出来なかったとある。現在は、江ノ電長谷駅から紫陽花で有名な成就院、そして極楽寺を通って腰越に抜ける舗装された道になっている。

大仏切通 梶原、山崎から藤沢に伸びていた。現在は、大仏前の2つ先の「火の見下」というバス停近くの民家の間を縫って上り、大仏方面に戻ってくると大仏ハイキングコースと合流する。国木田独歩も左右の絶壁数十間と「鎌倉の裏山」に書いているが、現在も往時を偲ばせる絶壁が見られる。なお、この切通から大仏ハイキングコースを通って、源氏山、鎌倉駅更に北鎌倉までハイキングが出来るようになっています。北鎌倉から大仏までゆっくりと見物しながら一日コースのハイキングに良いのではないでしょうか。


(大仏切通)

 化粧坂(けわいざか)切通 鎌倉駅から15分海蔵寺の手前から山に入り、葛原岡そして武蔵へと続く道。その名の由来には平家の武将の首を化粧して実検した場所だからなどの説がある。新田義貞は三手に分けた軍勢のうちの一つをこに差し向け幕府軍を破っ

 亀ヶ谷坂(かめがやつさか)切通 扇ヶ谷と山ノ内をむすぶと共に、武蔵から奥州に通ずる。吾妻鏡は、仁治元年(1240年)、三代執権北条泰時が悪路だった山ノ内道を整備したと伝えている。この坂を登ろうとする亀はあまりの傾斜に皆ひっくり返ったため亀返坂とも呼ばれた。北鎌倉の建長寺方面から鎌倉駅、銭洗い弁天方面に通じている。


(亀ヶ谷坂)

 (こ)(ぶく)(ろ)(小袋)坂切通 鶴ヶ岡八幡の裏参道のあたりから西の方角へ向かう道が旧来の巨福呂坂。やはり北条泰時が整備したとされる。現在は通れない

 朝夷奈(あさいな)朝比奈(あさひな))切通 鎌倉と六浦(現在の横浜市金沢区)をむすぶ。六浦港は鎌倉時代には塩の産地であり安房、上総や下総などの関東地方を始め海外(唐)まで各地からの物資の集散地として、また、交通、戦略上の最も重要な拠点であった。時の執権北条泰時が自ら馬に石を運ばせ、工事を急がせたと言われる。途中に熊野神社があるが、工事の安全と鎌倉の鬼門を守るために祀られたと言われる。鎌倉七口の切通の中で最もかつての雰囲気を残していると言われる。鎌倉駅からバスで行きバス停「十二所神社前」でおり、切通を登っていく。ゆっくり歩いて1時間の道のりであるが、昔の雰囲気を味わいながら森林浴も出来る。切通を抜けると「朝比奈」のバス停に出る。ここから、鎌倉、大船、金沢八景等にバスがある


(朝比奈切通)

名越切通 鎌倉から三浦に通ずる。鎌倉市と逗子市との境界になる。かつての切通の面影が残っている。道筋は日本武尊が東夷を制圧する際に通った古東海道筋ではないかともされる。鎌倉駅から徒歩15分大町5丁目に上り口があり、逗子市側におりる。途中に全長数百メートルに及ぶ大規模な「大切岸」がある。また、かつて日蓮が追われて逃げる時、白い猿が現れ導いたとされる、お猿畑がある。


(名越切通)


(数百メートルにわたる大切岸)

(了)