「鎌倉散歩」 (その24)   得田 皓則 

 紫陽花の寺 明月院  駈け込み寺 東慶寺

  例年より大分梅雨入りが遅いようですが、今年もようやく梅雨の季節がやってきました。梅雨と言えばアジサイ、アジサイと言えば「明月院」と言われるくらい、今朝はそのアジサイを見に明月院に、そして同じ北鎌倉の駈け込み寺で有名な「東慶寺」に寄ってきました。
▽明月院 (紫陽花寺)
  境内に多くのアジサイが植えられ、アジサイ寺としてつとに有名である。たまたま今朝は開門の前に行ったので、混んでいなかったが北鎌倉駅から近いせいもあり、シーズンは人、人、・・・と言う状態でさてアジサイがあったかしらと言うことになる。

(明月院アジサイ)

 明月院の創建は永暦元年(1160年)に始まる。この地の住人で、平治の乱で戦死した首藤刑部大輔俊道の菩薩供養として創建された。その後、康元元年(1256年)建長寺を建立した第五代執権北条時頼によって、この地に最明寺が建立された。いうなれば北条時頼の別業の仏堂である。時頼は禅を深く信仰し、建長寺を建立した後も、大覚禅師に師事し、建長寺を経済的に支援すると共に、全国に禅宗を広め、30歳で出家、僧名を覚了房道崇と号し、37歳で卒去した。現在境内にお墓がある。後に、子の時政が最明寺を前身として禅興寺を建立した

(本堂から後庭園を望む)

 明月院はこの塔頭として室町時代、関東管領上杉憲方によって建てられた。明治期に禅興寺は廃絶され、現在は明月院だけが残されている。宗猷堂(そういうどう)には、密室守厳の木造を安置している。そのそばには鎌倉十井の一つ「瓶の井」がある。また、山際に掘られた明月院やぐらは鎌倉時代最大のものである。

(明月院やぐら跡)

東慶寺(駈け込み寺)
 尼寺の時代、街道沿いの御門から中は男子禁制で、追っ手に追われた女が草履とか「かんざし」を投げ込むと駈け込みが認められたと言われます。
  今も尼寺の風情が残り、季節の折々の花で彩られています。
(東慶寺あやめ)
 北鎌倉では円覚寺に時宗が眠り、向かい合わせのここ東慶寺には時宗夫人が眠り、仲睦まじい姿を見せています。
  時宗は18歳で執権となり、弘安7年(1284年)に34歳で亡くなるまで空前の国難である蒙古の来襲に心血を注ぐことになりました。その間、父時頼の影響もあって、時宗夫婦は禅への信仰を深めていきました。時宗は34歳での臨終に先立ち、出家入道します。
  夫人も落髪布衣、無学祖元から覚山志道と安名された。翌、弘安8年覚山尼は松岡山東慶寺を開創した。五世用堂尼(後醍醐天皇の皇女)の入寺以後、寺格の高い尼寺としてその名を馳せる様になる。

(東慶寺本堂、左が覚山尼、右に用堂尼と天秀尼)

 大阪夏の陣の後、家康は豊臣家の遺児で家康の孫娘千姫の養女を殺すに忍びなく、東慶寺に入山させることにした。その際、当時7歳であった二十世の天秀尼は家康に「開山よりの寺法が断絶することのないように」と願い出て、以後江戸時代を通して大きな効力となった。平安時代より寺は次第に勢力を高め、中世に入ると治外法権を持つほどになった。とりわけ東慶寺は女人救済の「駈込寺」として人々に知れ渡り、寺法が確立された。江戸時代、男子不入の寺法を犯した会津城主の加藤明成がお家没収になったことから、東慶寺の寺法にはむかうものは1人もなかったと記されています。
  女の不法による一方的な離縁願いであっても常に女性の立場を優先させて来たのが東慶寺です。夫は協議離婚か、寺法の発動による強制離縁の2つのうちのいずれかを選択しなければならず、男が後者を選んだ場合に限り、女には足掛け3年の寺勤めが課せられた。
ついそこのように駆け出す松ヶ岡    
みんなしていびりましたと松ヶ岡
三年目世間も晴れるあま上がり
明治6年「人民自由の権利」によって松ヶ岡の寺法は法律に引き継がれた。
女性が強くなった現在では、駈込み寺も不要でしょうが、最近では弱くなった男性が駈込みたいとか?!
(東慶寺アジサイ)
(東慶寺 春3月の梅)
(了)