「鎌倉散歩」 (その31)   得田 皓則 

「鎌倉散歩」 ...31

◎鎌倉宮

 鎌倉宮は鎌倉駅から歩いて行くと、鶴岡八幡宮を通って約25分、丁度歩くのには良い距離かと思います。バスですと大塔の宮(鎌倉宮)行きの終点で約10分かかります。

 鎌倉宮は明治2年明治天皇により第96代後醍醐天皇の皇子護良親王(もりながしんのう/もりよししんのう)の霊を弔うために、護良親王を祭神として創建されました。

(鎌倉宮の写真)

 護良親王は延慶元年(1308年)に後醍醐天皇の皇子として誕生しました。6歳の時に三千院に入り、11才で延暦寺に入室、大塔の宮(おおとうのみや)と呼ばれる。その後、後醍醐天皇の画策で嘉暦3年(1328年)天台座主となる。

 元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が鎌倉幕府討幕運動の元弘の変を起こすと、還俗して参戦する。その後、2年にわたり幕府軍と戦い続け、京都の六波羅探題を滅ぼした。しかし、倒幕の功労者足利尊氏とは相容れず、倒幕後も上京せず、尊氏を牽制した。

幕府滅亡後に後醍醐天皇により開始された建武の新政で、護良は征夷大将軍、兵部郷に任じられて上洛した。しかし、その後尊氏のほか、父の後醍醐天皇やその寵姫と反目し、征夷大将軍を解任され、建武元年(1334年)冬、皇位簒奪を企てたとして捕らえられ、足利方に身柄を預けられて鎌倉へ送られ、鎌倉将軍府にあった尊氏の弟、足利直義の監視下におかれる。皇位簒奪は濡れ衣であったと言われる。

(土牢の後)

 翌年、北条時行の乱が起き、鎌倉が北条軍に奪還されると、二階堂ヶ谷の東光寺に幽閉されていた護良親王が、時行に奉じられることを警戒した直義に殺害された。この時、建武2723日(1335年)、27才である。この幽閉されていた時には東光寺の土牢に閉じ込められていたと言われる。

  現在、護良親王の墓は鎌倉宮から少し離れたところにある。

地元では、親王が出家後の名前、大塔の宮(だいとうのみや/おおとうのみや)として親しまれている。

なお、毎年、秋10月に境内で薪能が演じられて鎌倉の名物となっている。

(護良親王の身代わりになって戦死した村上義光を祀る村上社)

この鎌倉宮からは覚園寺(かくおんじ)とか瑞泉寺までそれぞれ10分程度ですから、一緒にまわられると良いでしょう。特に、覚園寺は瑞泉寺ほど有名ではありませんが、山の奥まったところにあり、静寂に包まれた寺で、寺僧による広い境内の案内がありますので、お薦めです。

(了)