「鎌倉散歩」 (その32)   得田 皓則 

「鎌倉散歩」 ...32

◎長寿寺

 長寿寺は建長寺の塔頭(たっちゅ)の一つですが、従来は境内を公開しておりませんでした。たまたま、お気に入りのウオーキングコースの一つである鶴ヶ岡八幡宮を通り抜け、建長寺そして長寿寺の脇を通って切り通しの亀ヶ谷坂へ行こうとしたら、長寿寺が公開されているのに気が付きました。聞くと、6月下旬までの金、土、日曜日の晴天の日に公開されるそうです。早速、入ってみました。勿論、初めて内部を見たわけですが、鎌倉のお寺には珍しく庭の苔が美しく映えていること、更に、特別公開の為か、本堂をはじめ、書院等内部が公開されて、部屋の中から落ち着いて美しい庭園を拝見する事ができます。また、庭には季節に応じてその時々の花が美しく見られるようです。丁度、牡丹とつつじが終わり、芍薬の花がこれからと言う所でした。

(庭園)

 場所は北鎌倉駅から10分、建長寺から坂を少し下がった所にあります。この寺の脇の道が切り通し、鎌倉七口の一つである、亀ヶ谷坂に通じております。亀ヶ谷坂を下って、鎌倉駅に至ることが出来ます。まぁ、通の道でしょうか。

 長寿寺は、その昔、関東管領(所謂、鎌倉公方)足利基氏により、父尊氏の菩提を弔う為、その邸跡に創建された。当時の規模は七堂伽藍を備え、関東諸山第一の寺であったと言われている。尊氏の法名は京都では等持院殿であるが、関東では長寿寺殿と称するように布告されたと言われる。境内裏山にある、やや粗末にも見える五輪塔の墳基には尊氏の遺髪が埋葬されていると言われる。

(足利尊氏の五輪の墳基)

 御堂には尊氏像と開山古先印元禅師の像が祀られている。

古先印元禅師は永仁元年(1294年)鹿児島に生まれ、8歳の時円覚寺に投じ、文保2年(1318年)24才にして、中国に遊錫し、33歳の時に帰朝、爾後入滅に至るまで、建長寺をはじめ多くの巨刹に歴住し、また、奥州の普応寺をはじめ多くの寺を各地に創建した。晩年、当山に退老し、応安7年(1374年)正月23日夜衆を集めて遺戒し、翌24日正午、心印の二字を大書し溘然として入滅したと言われる。80才であった。

開基の足利基氏は、尊氏の第4子、尊氏関東の地を固めるため基氏を鎌倉に駐在させ、八州及び奥羽を鎮撫せしめた。基氏は英武にして能く士心を得、兄義詮を補翼し室町幕府をして東顧の憂いをなからしめた。しかし、貞治6年(1367年)病に侵され426日に亡くなる。本人の遺志により明月院に葬られている。

なかなか趣のある茅葺きの観音堂はもと奈良県の古刹忍辱山園成寺にあった多宝塔を改造移築したものである。

(本尊の観音菩薩像が祀られる観音堂)

(了)