「鎌倉散歩」 (その35)   得田 皓則 

    

◎常楽寺
 大船駅から徒歩15分、鎌倉駅からは江ノ電バスで10数分(バス停常楽寺下車)、徒歩で約1時間の所にあります。北鎌倉駅、円覚寺からは徒歩25分になります。
 山号は粟船山(ぞくせんざん)と称し、粟船山常楽寺と言います。
本尊は阿弥陀三尊、嘉禎3年(1237年)の創建で開基は北条泰時、開山は蘭渓道隆です。常楽寺はもともと「粟船御堂」と呼ばれ、北条泰時夫人の母の追善供養のために建てられたものであった。

常楽寺庭園
 建長年間、時の執権北条時頼によって宋の禅僧、蘭渓道隆が鎌倉に招かれた。道隆ははじめ常楽寺の住持となり、先端中国の禅宗を広め、それを学ぶために僧が門前には溢れんばかりの盛況であったと言われます。
 その後、建長寺が創建され禅修行の場が同寺に移ると、常楽寺の禅宗寺院としての重要性は減じたが、それ以降も臨済宗建長寺派の間では「常楽寺は建長の根本である」と重視されました。この事は現在、鎌倉国宝館に保管されている宝治2年(1248年)の銘のある銅製の梵鐘(この梵鐘は国の重要文化財に指定されています。)を持ち建長寺、円覚寺両寺の鐘と共に三大名鐘と称される事でも分かります。
  現在、伽藍としては仏殿、山門、文殊堂が現存します。

常楽寺山門
 仏殿は元禄4年(1691年)建立で神奈川県の重要文化財に指定され、阿弥陀如来像の他、観音像、蘭渓道隆像が安置されている。天井には狩野雪信による「雲竜」が描かれています。
  文殊堂には蘭渓道隆ゆかりの文殊菩薩座像が安置されています。

常楽寺仏殿と文殊堂

  現在、お寺自体は比較的こぢんまりした落ち着いたお寺でありますが、開祖である三代執権北条泰時に思いを致すのが宜しいのではないでしょうか。公家社会から武家社会への歴史的転換期の時代を築き、その後の武家社会の基本的な形を作ったと言われます。日本史で学んだ色々な出来事が起きた時代でもあります。
 三代執権北条泰時は2年(1183年)北条義時の庶長子として生まれる。その後、正室の子である次郎朝時が三代将軍実朝の怒りを買い、失脚したため嫡男とされた。
  承久3年(1221年)の有名な承久の乱(後鳥羽上皇が鎌倉幕府を討つために起こした兵乱である。後鳥羽上皇の倒幕の院宣に対し、鎌倉勢は北条政子や義時を中心に結束して対抗し、倒幕軍は破れ、後鳥羽上皇は壱岐に配流された。これを機会に、鎌倉幕府が東国の軍隊的存在から、西国への進出の道を開いた。これをきっかけに、公家政権は著しく勢力を削減された。)では、幕府軍の総大将を務めて倒幕軍を破り京都に入った。そして朝廷を監視するために六波羅探題北方に就任した。
  貞応3年(1224年)、父義時が急死したため、第3代執権に就任した。その後、評定衆を設置し、有力御家人による合議制を確立した。
  貞永元年(1232年)、北条泰時を中心に数名の評定衆が編纂したのが、貞永式目とも言われる、最初の武家の法典として有名な鎌倉幕府の基本法「御成敗式目」である。51か条から成り、一定の体系性を供えたものとしては最初の武家法典である。その後、江戸幕府が武家諸法度を制定するまで、武家の基本法として機能し続けた。

北条泰時の墓

 泰時は人格的にも優れ、武家や公家の双方からの人望が厚かったと肯定的に評価されている。同時代では、参議・広橋経時が古代中国の聖人君子にたとえて賞賛しているほどである。

(了)