「鎌倉散歩」 (その38)   得田 皓則   

◎文化人ゆかりの記念館

 鎌倉には多くの文化人と言われる人が住んでいます。その中には亡くなった後、建物・土地等を市に寄贈され、記念館として公開されているものが幾つかあります。

鏑木清方記念美術館

 鎌倉駅から鶴ヶ岡八幡宮への近道になる、小町通りの途中を入った所にあります。

 鏑木清方は明治11年、東京神田で生まれました。その画業の始まりは挿絵画家からでした。その後、肉筆画に向かい、清らかで優美な女性の姿や、活き活きとした庶民生活、肖像、愛読した樋口一葉らの文学を題材として描かれた作品は、人々の共感を得ました。

鎌倉には昭和21年に材木座に居を構えました。昭和29年、文化勲章受章の年よりここ雪の下に画室をもうけ、昭和47年に93才で亡くなるまでの間を過ごしました。

清方は情趣溢れる日本画作品、また典雅な文体による随筆を多く残しています。

平成6年、遺族から鎌倉市にその画業と創作の場を後世に伝えて欲しいという趣旨のもと、美術作品・資料と土地建物が寄贈され、平成104月に鏑木清方記念美術館として開館しました。

(鏑木清方記念美術館入口)

(同 ポスター)

吉屋信子記念館 

 鎌倉駅から長谷の大仏に通ずる由比ヶ浜大通りの北側に並行する、長谷の静かな通りにあります。

 吉屋信子さんは明治29年新潟で生まれました。幼少から読書好きの少女として成長し、明治41年栃木高等女学校に入学し、講演に着た新渡戸稲造の「良妻賢母より一人の人間としての女性の完成」の言葉に感銘を受ける。その後、少女雑誌に投稿をはじめ、43年「少女界」の懸賞に応募し「鳴らずの太鼓」が一等に選ばれる。大正5年「少女画報」に掲載の「花物語」が好評を博し、13年頃まで書き継がれて代表作となり、少女小説という新しいジャンルを開拓する。

 大正8年、大阪朝日新聞が募集した長篇懸賞小説に「地の果まで」が一等に当選し、代表作になる。その後、次々と作品を発表し、大衆小説家としての地位を確かなものにする。昭和11年に発表した「良人の貞操」が大きな話題になり、吉屋信子時代を築いた。

 昭和27年には短編小説「鬼火」で女流文学賞を受賞し、新たな境地を開いた。

 昭和37年鎌倉市長谷に、数寄屋建築で著名な吉田五十八の設計による新居を建てて移る。

 昭和41年朝日新聞に「徳川の夫人たち」の連載をはじめ、大成功を収める。ついで、昭和45年から「女人平家」の連載を週刊朝日に連載し、病魔と闘いながら完成する。

 昭和48年ガンでなくなる。そして「自分の得たものは社会に還元し、住居は記念館のような形で残して欲しい」という遺志により土地建物が鎌倉市に寄贈され、昭和49年から市民の学習施設として開館しております。館内は生前のままに保存され、一般公開は5月、11月に行われます。

 (吉屋信子記念館塀)

 (同 住居)

川喜多記念館(仮称)

 川喜多長政・かしこ夫妻は、生涯を通じて外国映画の輸入と配給、海外への日本映画の紹介などに情熱を注ぎ、国際的な舞台で活躍されました。我々が若い頃によく観た素晴らしい洋画の数々は川喜多さんが手がけたものが多かったのだろうと思います。

 長政さんが昭和56年に、かしこさんが平成5年に亡くなられた後、ご夫妻が住まわれた場所に映画記念館(資料館)の建設を願って、遺族から鎌倉市に土地建物が寄贈されました。場所は、鏑木清方記念美術館を60メートルほど鶴ヶ岡八幡宮よりによった所、小町通りの突きあたりを入った所になります。

 鎌倉市は映画を通じて国際交流に努めてこられた川喜多夫妻の遺志を尊重して、映画文化にゆかりのある鎌倉から、広く、新たな映画文化・映像文化の情報を発信していくため、旧川喜多邸跡に川喜多記念館(仮称)を建設することにしました。平成22年の開館の予定です。

 (工事中の川喜多記念館)

鎌倉文学館

 前にも取り上げておりますが、鎌倉文学館の本館は旧加賀藩・前田侯爵の別邸を鎌倉市が寄贈を受けて、文学館として活用しているもので、建物自体が国の登録有形文化財として指定を受けている貴重なものです。

長谷の吉屋信子記念館から少し大仏よりに行った三方を緑の自然に囲まれ、前面に由比ヶ浜の海を望む素晴らしい環境と、広大な庭園に咲く美しいバラ園が魅力を高めております。

鎌倉には明治より夏目漱石をはじめとする多くの文人たちが訪れ、昭和に入って川端康成、大佛次郎をはじめとする多くの文化人が居を構え、活動をしてきました。川端康成の旧邸も直ぐ近くになります。(公開はされていません)

昭和60年に開館して以来、鎌倉ゆかりの文学者の文学資料の収集保存をし、テーマを決めて展示活動をしています。

(鎌倉文学館)

(了)