「鎌倉散歩」 (その39) 得田 皓則
◎三渓園
▽今回は横浜市の東南、本牧にある三渓園を訪ねました。
三渓園は生糸貿易により財をなした実業家「原 三渓」によって、1906年(明治39年)5月1日に公開されました。5万坪にも及ぶ園内には京都や鎌倉等から移築された歴史的に価値の高い建造物が巧に配置されています。(現在、重要文化財10棟)
個人が、絵画、彫刻、書等の美術品を所有する例は沢山ありますが、個人でこれだけの貴重な建築物を広大な私邸に移築して保存した例は殆どないのではないかと思います。
東京湾を望む横浜の東南部・本牧に広がる広大な土地は三渓の養祖父の原善三郎が明治元年に購入し、山荘を建てていたが、1902年(明治35年)原 三渓の手により造成が始められた。1908年(明治41年)に外苑、1923年(大正12年)に内苑が完成しました。
三渓が存命中は、新進芸術家の育成と支援の場ともなり、前田青邨の「御輿振り」、横山大観の「柳蔭」、下村観山の「弱法師」など近代日本画を代表する多くの作品が園内で生まれました。その後、戦災により大きな被害を受け、1953年(昭和28年)、原家から横浜市に譲渡・寄贈されるのを期に、財団法人三渓園保勝会が設立され、復旧工事を実施し現在に至っております。
▼正門から見た三渓園庭園▼
原 三渓(本名 富太郎)は1868年(慶應4年)岐阜県で、代々庄屋をつとめた青木家の長男として生まれた。幼少から絵、漢学、詩文を学び、1885年(明治18年)現在の早稲田大学に入学、政治・法律を学ぶ。1888年(明治21年)に跡見女学校の先生になり、1892年(明治25年)教え子であった原善三郎の孫娘、屋寿(やす)と結婚し、原家に入籍する。原家の家業を継ぐと、個人商店を合名会社へと改組、生糸輸出を始める等の経営の近代化と国際化に力を入れ、実業家として成功を収める。実業家としては生糸会社の他、日本郵船をはじめ我が国の有力企業の取締役を務めるなど財界活動にも力を入れていました。
実業界以外にも様々な面を持ち合わせた三渓は、住まいを本牧・三之谷(三渓という号はこの三之谷による)に移すと、古建築の移築を開始し、1906年(明治39年)三渓園を無料にて開園するほか、近代日本画家を所謂パトロンとして支援・育成を行った。インドの詩人タゴール等も訪問しています。1923年(大正12年)関東大震災後は、横浜市復興会長になって、それまでの美術品収集、作家支援を止め荒廃した横浜の復興に力を注ぎました。
また、三渓自身も書画をたしなみ、その作品の一部は、園内の三渓記念館内に収蔵されています。たまたま、三渓園を訪れた際に、「原三渓と美術」という特別展が開催されていましたが、そこに三渓の絵が宮本武蔵の絵と並んで展示されていました。両者の画風が大変似ておりました。
兎に角、三渓園は広く、また、素晴らしい景色、見るべき建物、美術品等が多くあるので、優に半日はかけてゆっくり見たいものです。
▽以下に代表的な建物を幾つか紹介します。
▼鶴翔閣▼
1902年(明治35年)三渓が建築し、
延床面積950uにも及ぶ原家の本宅。
大規模な鶴が羽を広げた印象から、
鶴翔閣と呼ばれた。
横山大観など三渓との交流のあった
多くの文化人らが出入りしていた場所
として知られる。
現在、会議、結婚式、パーテー等に
貸し出しを行っている。▼旧燈明寺三重塔▼
聖武天皇の勅願寺・京都燈明寺に
あったもので、関東地方では最古の
塔になる。
1457年(康正3年)建築で、1914年
(大正3年)移築された。
園内の殆どの位置から見る事が出来、
三渓園を象徴する建物です。重要文化財。▼合掌造(旧矢箆原家住宅)▼
白川郷にあった江戸時代の庄屋の家を移築したもの。
園内で唯一内部を公開している。重要文化財。▼臨春閣▼
紀州徳川家初代徳川頼信が和歌山・紀ノ川沿いに
夏の別荘として建てた数寄屋風書院造りの別荘建築。
屋内には狩野派の襖絵や数寄屋風の意匠が残る。
1649年(慶安2年)建築で、1906年三渓の手に渡り、
1915年から移築された。
この景観は京都の桂離宮に比較される。
重要文化財。▼月華殿▼
徳川家康時代の京都伏見城内にあった大名伺候の
際の控え所の建物。
1591年(慶長8年)建築。重要文化財。▼旧天瑞寺壽塔覆堂▼
豊臣秀吉が京都・大徳寺に母の長寿を祝って建てた
壽塔の覆堂。1591年(天正19年)建築。重要文化財。▼聴秋閣▼
京都二条城にあった徳川家光・春日局ゆかりの
楼閣建築。1623年(元和9年)建築。重要文化財。▼春草廬▼
織田信長の弟・有楽斎の作と伝わる三畳台目の
茶室。重要文化財。▼天授院▼
鎌倉建長寺付近の心平寺跡にあった禅宗様の
地蔵堂。1651年(慶安4年)建築。
大正5年に移築された。重要文化財。
(了)