北の洋 昇 (関脇)     本  名  緒方  昇

生年月日: 大正12年2月1日  没年月日:平成14年1月8日

初 土 俵: 昭和15年1月場所   十両昇進:昭和23年10月場所

入  幕: 昭和25年9月場所  最終場所:昭和37年3月場所

幕内在位:52場所        幕内成績:368勝388敗24休

三賞受賞: 殊勲賞(4回)、敢闘賞(1回)、技能賞(5回

      

  緒方さん 「北の洋」 の追悼特集について

              東京網走会事務局長 得田 皓則

  さる1月8日緒方昇さんが亡くなりました。

東京網走会にとって大変残念な事でした。深く哀悼の意を表します。

 緒方さん「北の洋」とは殆ど個人的な関係はありませんでしたが、

幾つかの思い出があります。先ず、今から50年位前の小学生の頃、

あの豪快な網打ちに、ラジオにかじりついて、喝采を叫んだものです。

まさしく、郷土の英雄でした。

  その後、親方からNHKの解説と変られておりましたが、時々、東京

網走会で見かけておりました。たまたま、昨年東京網走会のホーム

ページを立ち上げるにあたり、緒方さんにホームページに「北の洋時

代」の活躍を載せていただけないかと、お手紙を差し上げました。

その後、NHKの解説をしている事や時間がないので期待に添えない

等の理由を毛筆で書いた丁寧な断り状を頂きました。その時に、随分

丁寧な人だなと思いました。やはり、解説でお馴染みのままの誠実な

人柄を感じました。

 昨年末、中川副会長、高橋副事務局長等と相談し、「北の洋」物語

をホームページに載せるために、取材をしようと話をしており、年が明

けて、そろそろ連絡を取ろうとしていた所の訃報でした。タイミングを失

した事が残念でなりませんでした。

網走をこよなく愛し、東京網走会にも積極的に参加いただいた緒方さ

んの追悼集を特集し、緒方さんを追悼したいと思います。

東京網走会の会員を始め、緒方さんゆかりの方の投稿を期待いたします。

(了)

  (稽古場で孫を相手に相撲の指導をする還暦の北の洋さん)

      とにかく真面目だった 北の洋

                 東京網走会相談役 林 秀

  1月8日青空が広がっているが、風極めて強く吹き荒れていた。

私は緒方さんの亡くなったことを知らぬまま、四国巡りの旅に出た。

恥ずかしながら帰宅して留守中の新聞を見て驚愕した。そう言えば、

昨年の東京網走会には欠席。今年は墨蹟鮮やかな年賀状がなかっ

た事を思い出していた。

 葬儀に参列した北浜で隣組だった、坂東叙子さん(東京網走会幹事)

が寂しげに、悔しそうに「前日もお元気でビールが飲みたいと言ってい

たのに残念です。本当に心やさしい人でした。」そして、火葬場の職員

の方が「40年この仕事をしているが、これ程しっかりした骨を見た事が

ない。二十代の骨です」と、緒方さんの挙止端正と骨太を思わせる話で

した。

  東京網走会のアイドルで大勢の会員と身軽に語り、カメラの前に立ち、

握手攻めにも快く応えた人気者でした。協会役員時代には何時も横綱

の手形を十枚ほど寄贈して下さいました。

 相撲社会では、横綱が絶対ですが、緒方さんは知性派理事として立

派な仕事を成し遂げました。その陰では並々ならぬご苦労があった筈、

両国国技館の建設に当って春日野理事長と二人で'六十の手習い'と言

って、法律、簿記などの学校へ通ったそうだ。

 また、相撲好きだった天皇陛下にご挨拶に行かれた時の写真を網走

のお母さんが見て、大変喜んでくれた、親孝行が出来ましたと微笑んだ

顔が今も忘れられません。人格円満で、新聞記者、テレビアナウンサー

の口から緒方さんを批判する声は全く聞かれない。

 緒方さんが還暦の夏、二十年振りに立浪部屋の土俵へ上がった、

三代揃い踏み。元関脇北の洋、娘婿の元関脇黒姫山、そして、孫の大介

君(現幕下羽黒灘)。ハダシで土を踏むのは気分いい孫を相手に毎日や

ると張り切っていた。春日野理事長は「北さんけいこしてるって?お孫さ

ん相手でも土俵に上がるとは立派ですよ、俺だって孫がいればやりたい

よ」とうらやましそうに言う。

 真面目な緒方さんのいい話は沢山ある。もっともっと書きたいが、一筆

事に寂しさが倍になる。名力士北の洋、名経営者武隈、名解説者緒方昇、

そして東京網走会の宝物、本当に有難う。


安らかに!!

(了)

     郷土の誇り 北の洋さん

                 東京網走会相談役 成ヶ澤宏之進

 現役時代、白いイナズマの異名をとった北の洋さん(緒方昇さん)。

東京網走会には、特別な予定のない限り毎回出席され、皆さんににこやか

な笑顔を振りまかれた。

  そのお人柄は、誠に温容、角界の重鎮になりながら、ふるさと会では、そ

のそぶりは全くなし。気楽に誰とも話をされ、慕われていた。時に欠席される

と、いつものお相撲さんはどうしたのかしら、と、女性陣から声が出るほど。

 北の洋さんは、網走市北浜のご出身。網走会幹事の坂東叙子さんとは北

浜でお向かい同士の縁。そして、住まいも同じ墨田区。郷党同士の力強い絆

は、坂東さんも本当に頼り甲斐があったことだろう。

 北の洋さんの土俵姿は、それは華麗の一語につきる。イナズマの評そのも

のの素早いこなしは、十分に練り鍛えた技の展開であった。

人間の人様は、土俵に良く現れる。男らしい、そして美しい。礼儀正しく、きた

ない手は使わない。稽古熱心で、真面目。その力士としての実力と活躍、お

人柄ゆえに、ひいき筋も強く、特に東京築地の魚河岸にファンが多かった。

北の洋という水産製品まで現れた程である。

 現役を引かれ、日本相撲協会の役員に選任されてから、現役時代に勝る

立派な業績を残された、理事長に次ぐ要職で、担当は協会の経営。あたかも

両国の国技館建設の時期に当り、資金、その他経営計画など重要な課題を

抱えていたが、北の洋さんはこれらを立派にこなした。時の総理大臣からま

で、政府の財政政策も、相撲協会をお手本にしなければ とのお褒めまで頂

いたものである。北の洋さんのご苦労は皆さんが認め、そして讃えた。

  北の洋さんの長所は、決して自説を押付けぬ謙譲にある。人々の意見を

十分に聞き、そして調整しつつ物事を進める。つまり衆議をつくし、誤りなき方

向を定める手法であった。人の心を大事にし、調整していくその進め方は定評

があった。角界で北の洋さんの悪口は皆無。その人望が如何に厚かったか分

かるものである。

  役員を下りてからは人々の知る通り、各場所の名解説者として活躍された。

その言葉が今でも耳に残る。まさに、私共、網走の誇り。

世を去っても、永久に語りつがれる人である!! 

(了)

(東京網走会に出席した時のお写真=右側が北の洋さん)

     名力士、名解説者を悼む

               東京網走会副会長 中川 昇三

 緒方昇さんがなくなられた。昨年末、知人や知人の奥さんの不幸で

大晦日までいそがしかった上に、新年最初の訃報であった。

  背筋がつーんとのびた、いわば相撲界の紳士だったといえる人だった。

私たちの世代では、大相撲の北海道時代を支えた一人、北の洋として知

られていた。土俵では、それこそ背中をピンとのばした堂々たる技能派力

士で、関脇までつとめられた。土俵を去ってからは、12年間もNHKの解

説者を続けられた。熱っぽくて、親しみやすい、あの歯切れのよさを覚え

ている人は多いだろう。

 そして、われわれ東京網走会にとっても、身近な人だった。お忙しい身

体なのに会になんどもきてくれた。会のしめくくりの二次会まで付き合って

くれるので、私などは相撲界の内幕などを知りたくて、つい立ち入ったこと

まで聞いてしまうのだが、それにも丁寧に答えてくれた。

最近の網走会では、一昨年に来てくれた。私から「なにかひとこと、皆さん

に話してくれませんか」とお願いしたが、「檀の上から話すよりも、こうして

皆さんとお話しするのがたのしいのですよ」と会の雰囲気にひたっておら

れた。あの笑顔が最後になってしまった。

  だいぶ以前のことだが、こんなこともあった。私のつとめていた新聞社

の社長が横綱審議会の委員をしていたのだが、忙しくて,審議会の方は、

欠席がちだったらしい。で、網走会でお会いした緒方さん(そのときは武隈

親方だったと思うが)から「おたくの社長さんに出席をお願いしてくれません

か」といわれ、社長にとりついだ。社長は「そうか。北の洋さんから君にもい

ったきたのか。じゃ、こんどからはもっと出なくちゃな」といってくれた。その

ころ武隈親方は、相撲協会の理事長を支える実力理事でもあったのだ。

 最近は武隈親方は娘婿の元黒姫山にゆずって余生をたのしんでいた。

黒姫山の息子二人も角界入りして、親、子、孫三代が実現していた。兄は

三段目羽黒灘、弟は序二段羽黒国である。緒方さんとしては、お孫さんの

出世をもっと見たかっただろうに、と思う。 

(了)

           優しさにあふれた紳士

                     東京網走会幹事 宮内 みち子

  家にラジオもない時代でした。

有線放送で流れてくる相撲の実況中継は夢中でかじりついたものです。

「北の洋」というのは地元出身だと知ったのはいくつぐらいからだったので

しょう。随分昔から知っていたという覚えはあるのですが、でも現役当時で

覚えていることはなく、テレビの解説者になってからが本格的ファンの始ま

りです。

 あの優しさにあふれた語り口とその内容は本当に素敵で、人間性がこん

なににじみ出て全然いやらしさが無いと言うのはなんて素晴らしい方なん

だろうと、クイズ番組に出られてもうっとりと見ておりました。

  東京網走会で幾度か遠くから拝見していたのですが、平成9年についに

本田紀子さんと二人で意を決してお側へ行き、サインをねだったのはいい

けど色紙の手持ちはなく、ためらいましたが、二人で当日の領収書の用紙

を差し出しました。

 ボールペンで「元北の洋 緒方 昇 」と書いてくださいました。

ご出身はどちらですかと逆に質問されてしまいましたが、それはテレビで拝

見しているのと変わりなく紳士そのもの。

  人間こんな風に年をとりたいものとよりファン度を高めました。

そのときのサインは相撲大好きの姑にプレゼントしましたが、大事にしてい

る相撲に関しての雑記帖にきちんと貼られております。

 この時が東京網走会に出席された最後になったのですね、

自分には関係ないけど他人様に自慢したいものが一つ減ってしまいました。

ご冥福を心からお祈り申し上げます。

(了)

      私の北の洋

                    東京網走会副事務局長 高橋 和憲

  きわめて不確実で遠い記憶の断片をたどって見る。もみ上げが長く、毛む

じゃらの大男が土俵際で粘りに粘って、うっちゃった後、自分も土俵下に転

落してしまう。悔しそうに土俵を去る相手力士をよそ目に勝ち名乗りを受け、

手刀を切る一方で、いとも簡単に負けてしまって、寂しそうに肩を落として

土俵を去って行く北の洋力士の両方のイメージが私の記憶の中にある。

 どちらのイメージが本当なのか詮索はしない。ラジオしか無かった時代

だから全盛時あるいは晩年の「北の洋」さんは、「栃若」はもちろん、北葉山

とか大内山とか朝潮とか当時?好きだったそんな力士と入り混じって不確

かなのだが「北の洋」という力士名はいまも忘れずに居る。

 戦後の貧しかった時代にオホーツク沿岸に住む人々を勇気づけてくれた

偉大な力士が北の洋さんだと、そう思っている。私には無念のため息をつく

人々のざわめきが聞こえてくる。それは土俵上の勝負で一喜一憂した人々の

ざわめきと重なって、今、彼の死を悼む悲しみの嗚咽となって聞こえてくる。

 10年以上前の東京網走会で初めて緒方さんにお会いした。この時の印象

は先輩諸氏が追悼集に寄せているものと同じである。一昨年の東京網走会

でお会いしたのが最期になってしまった。会で司会を務めた私がごあいさつ

を促したのだが、にこにこしながら固持された面影が忘れられません。

逝ってしまっても、来年もまた再来年も続くだろう東京網走会に笑顔で出席

してくれるに違いありません。

 ご逝去を心よりお悔やみ申し上げます。

(了)

優しかった緒方さんの思い出

                           東京網走会幹事 坂東 叙子

 林さんと成ヶ澤さんの追悼文に出てくる緒方さんと大変親しかった東京

網走会幹事の坂東さんにお会いし緒方さんとの思い出を聞いてきました。

メモをまとめ掲載させていただきます。(文責=事務局長 得田 皓則)

 緒方さんと坂東さんの実家は網走市北浜で道を挟んで真向かい、緒方

さんの家が料理屋で坂東さんの家が酒屋という事で大変親しかった。

 緒方さんが大正12年生まれ、坂東さんの父親も大正10年生まれという

事で、父親と殆んど同じ世代だったことも親しかった理由の一つだったの

でしょう。昇さん、達ちゃんと言ってました。

 よく夏休みなんかには家に帰ってこられ、子供たちをつれて海に行った

りしたものです。毎年のように、墓参りに帰られ、網走を大変愛していた

ようです。

一度、緒方さんから、北浜から出てきて、日本を代表する人たちと知り

合いになれたのも、私は相撲のお蔭だし、あんたは芸のお蔭だ、感謝し

なきゃといわれました。

 私が上京して、確か昭和44〜5年ころ、浅草演芸場(通称デン助劇場)

に歌手で出演することになったのですが、知っている人もいないので、

切符を持って蔵前に行きました。叙子ちゃん良く来たなと歓迎してくれま

した。大変うれしかったことを覚えております。

 毎東京場所(1、5、9月場所)の千秋楽の後、緒方さんの家に50年来

の友人の横綱審議委員の平井義一さんから北の洋時代のファンやら

親方衆、近所の人まで幅広い人が集まり打ち上げをするのが慣わし

になっていました。

(平成8年に緒方さんのお家で板東さん、平井さん、大翔鳳力士らと)

 緒方さんが相撲協会の理事のとき、栃錦から若乃花に理事長が変

わり、天皇陛下にご報告に皇居に伺った折、緒方さんも(当時、武隈

親方)ご一緒したのですが、帰り際、皇太子殿下(現天皇陛下)にお茶

でも飲んでいきませんかと誘われ、お話をしました。若乃花は緊張で

コチコチで緒方さんが主としてお相手をされたそうです。海外の巡業

はどうですかとか、相撲協会を辞めた後はどうするのですかと聞かれ、

NHK で解説をする事になっていますとお応えをするとそれは良かっ

たね!と言われたそうです。皇居に上った話を北浜のお母さんにした

ら、大変喜んでくれて、親孝行が出来た、これも相撲をしていたお蔭

だと言っておられました。

 そのお母さんは、北の洋が現役の時は場所が始まると、必ず、お餅

をつき、近所にはあんこ入りのお餅をお裾分けし、神棚には真っ白い

お餅を15個供えていたそうです。

 昔から大変民謡が好きでしたが、脳梗塞のリハビリで入院中も民謡

を聞きながらリハビリをされていました。入院患者に何を聞いている

のですかと聞かれ、聞かせてあげたりもしていました。

 緒方さんは、相撲は日本の国技と言われ、相撲道を愛した人でした。

 緒方家の人は皆さん字が上手で、緒方さんも大変達筆でした。奥さ

んがどこかで貰ってきた人生訓を書いた日めくりを毎日めくっていて、

ぼろぼろになってしまった時、その中から気に入ったものをまとめて

北の洋「みちしるべ」緒方 昇 として緒方さんの自筆で書き残されて

います。

 「みちしるべ」は1日から31日まで書き残されています。1日(左)と

31日(右)をご紹介します。

緒方さんのお墓は網走ではなく両国の回向院にあります。

   合 掌 

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