▽網走の思い出 =得田 皓則=
私は4歳の時、父の故郷であった網走に疎開しました。当時、日本中が貧しい時代でした。網走の最初の住み家も倉庫を改造した3軒の家の中の一軒でした。家の土台が傾き、豆をまくと転がってしまう有様でした。冬には布団の足元に雪が吹き込んで来るような状態でした。
そんな中で父母は朝早くから夜遅くまで働いていたのを思い出します。当時、母は我々子供を連れて良く汽車を見に網走駅に行ったといいます。多分、望郷の念にかられていたのだろうと思います。その後、茶道を通じて、多くの知己を得ました。父は酒もタバコも飲まず真面目一方な人でしたが、そのお陰で、兄弟4人内地の大学に進学しました。父が亡くなった時、50年住んだ網走に、父の痕跡を残したいと市立図書館に多少の寄付をさせて頂きました。
さて、私は網走の多くの人と同様、網小、一中、そして南校へと進みましたが、なんと言っても思いでの中心は南校に入ってからであります。先ず困ったのは一中の時に男女別々のクラスだったために、女の子の隣にいるのが恥ずかしくてしょうがない。思春期ですから格別関心はあるのに、関心はない振りをする。地方から来た生徒が平気で話をするのを見て、内心うらやましい限りでした。
南校の裏手には今は無くなりましたが、軍刀台という見晴台のような所がありました。そこからは知床連峰が見渡せ、それは素晴らしい景観でした。お昼休みには弁当をそこで食べたり、夜は恋を語ったり?思い出尽きない場所であります。
当時の南校では毎年仮装行列が行われていました。1年生の時に熊祭りの仮装でクラスが表彰されたように思います。更に、網走湖一周のマラソン大会も毎年行われました。最初の時は、足が痛くて階段が昇れなかった事を思い出します。つらい思い出も懐かしく思い出されます。
南校を卒業し、京都の大学に行き、東京に就職し、鎌倉に住んでいます。両親が亡くなった後も、毎年、友人の家にお邪魔し、昼はゴルフ、夜はちゃんちゃん焼きというように網走通いをしております。
かつての紅顔可憐な美少年、美少女たちも昨年還暦を迎えました。昨年9月100人からの同級生が集まり、還暦同窓会を祝いました。
また、東京では毎年熱海に泊って同窓会を行っています。毎年同じ話をしているようにも思えますが、青春に返りやはり大変楽しい一時です。
現在、東京網走会の幹事として、志村会長の下、共同通信の高橋さんとこのHPを立ち上げつつあります。東京網走会の皆さん、是非「網走の思い出」「網走への提言」「東京での活躍」等々にお便りをお寄せ下さい!!(了)