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▽オヤジ "軍国主義的教育者"  =志村 幸雄=

 多田姓の私の実父は、北海道の道東地区で生涯を教職に奉じた。
小さな学校が多かったので、「校長」のオヤジから直接教わることも珍しくなかったが、その印象を一言で言うと、子どもの教育、なかんずく自分のの子どもには、たいへん厳しかったこと、小学校の腕白仲間が教室の掃除をさぼったり、何か悪さをする。それが露見すると、罪状認否(?)もそこそこに、よその子どもを叱る前に、まず自分の子どもの私を叱る。それもたいていの場合は、かなりちからのこもったゲンコツが飛ぶ。戦後の民主主義教育の中では想像もつかないような"軍国主義的教育"の実践者だった。
 そんなオヤジに終身を教わったのだから、たまらない。終戦の年に小学校の4年生だった私は、教育勅語の暗誦を怠って大目玉をくらったものだ。歴代天皇の名前の暗誦の場合もそれは同じで、これまたオヤジの監督の下、家で泣き泣き暗記に努めたのを今でも覚えている。私は、日本に独創開発が乏しいのは詰め込み主義教育にあり、と信じてやまないが、その原点は案外、戦時中のこの種の教育にあったのかも知れない。
 戦時下といえば、当時の小学校には、その規模の大小を問わず、校庭の一角に奉安殿があり、そこに天皇・皇后の写真(いわゆる御真影)や教育勅語が安置されていた。何か式典があるごとに、校長が鉄の扉を開け、両手で高くかざしながら式場に運び出すわけだが、オヤジはこの管理や取り扱いに殊のほか神経を使っていた。なんでも近隣の小学校の校長が、奉安殿の階段を後ずさりする際に転倒し、御真影を放り出すという一件があったのだそうだ。「不敬罪」という懲罰があることを子どもながらに知ったのも、この時である。
 オヤジの性格は人一倍几帳面だった。永らく校長職をつとめながら綿密な「学校日誌」を残しているのもそのためで、最近刊行された「網走空襲の記録」(網走空襲の碑建立委員会編)には、「なかなかこまめに記していて(戦中戦後の記録として)貴重」と持ち上げられている。
 日誌の記すところでは、終戦の年の昭和20年7月に入ると、網走地方といえども米軍機がしばしば飛来し、「空襲警報発令、授業休む」と言った記述が相次ぐ。特に7月15日の項には、「午前5時より2回の空襲警報発令。午前11時ごろ米機来襲、攻撃するを目撃す」とあり、事態がいっそう深刻になったことを示している。オヤジの日記では意図的に伏せられたフシがあるが、この日の空襲では、列車が攻撃を受け、少年兵や漁船員が死亡している。
 問題の8月15日の項には、こうある。「正午、天皇陛下の重大放送あり。...
平和の受託の放送にて、しばし茫然、感無量。夜来校者多し」
 簡潔な表現だが、オヤジの心情がそのまま吐露されているように思える。こんなオヤジに「太平洋戦争は侵略戦争だった」などと言えば、一瞬目をむき、やがて気落ちしてしまうに違いない。 (了)

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