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▽網走の思い出    =千葉市在住  吉田正=

     「とてつもなく図々しい男の話し」
                     
  思えば旧制網走中学校を留年すること2年(学業不良の故にあらず病の為なり)あげくは弟と同級生となり、それでもめでたく十九期の一員に加えてもらったのは有難いの一語に尽きる。その後も弱い弱いと言われながらもよく生き長らえてこの秋には七十六歳を迎えようとしている。

  さて昭和三十年代、心機一転志を立てて北海道を後にしたのが三十六年の三月だったからもう千葉に移り住んでからの歳月のほうが、道産子として生まれ育ったそれよりも上回っているのだが、事あるたびに眼が向くのは はるか北の空である。その昔私の少年時代、父が網走支庁に在勤していて官舎が網走神社の坂下にありその真向かいが 福田家であった。大きな庭のある静かな佇まいの旧家と記憶している。

  その当主の悌三氏と父とは、どうウマが合ったのか大の仲良しで挨拶抜きでお互いの家を行ったり来たりする間柄であった。日曜の朝など福田のおじが上がりこんできて何やら話し合う姿を見るたびに「大人って何でこんなに話すことがあるのだろう」と子供心にも不思議に思ったものだ。その後福田氏が病を得て、父より早く他界されたがその時の父の嘆き様は傍で見ていても気の毒な程であった事を今でも覚えている。

 月日がながれ福田家は福田編物研究所の名をかかげ次女の靖子ちゃんが教師としてその経営にあたった。そして福田のおばは、懐かしい網走の出来事を網走新聞に託して知らせてあげようと半月ごとにまとめて網走新聞を送り続けてくれたのだ。三日前の古新聞などといわれるが、半月前のしかも所々シミのついている部分もある新聞ではあったが私の貴重な情報源として毎回有難く読ませて戴いたものだ。おばが逝ってからは靖子ちゃんが母の遺志だからと言って新聞を送り続けてくれた。

 しかしその靖子ちゃんも急な病であっけなくこの世を去ってしまったのである。これで網走との縁もオワリかと思いきや・・・・自分で購読料を払って読むことは 考えなかったのであろうか? 随分と浅はかな御都合主義ではないか・・・折りしも網中十九期の同期会が催され、その席でこの話しをしたところ、網走経済界の重鎮 S・K君が「よーし、これから後のことはこの俺が引き継いだ」と宣言その後も新聞社から直送される網走新聞(これは一日遅れ)を読ませて戴いている果報者のこの私 まことに言うべき言葉を知らない。このような次第で私の網走新聞購読の歴史は、余りにも長年月にわたるのでその正確な年数は定かではないが、すでに通算五十年は下らないのではないかと思っている。「ふるさと」と私をつなぐ太い太いパイプ役、網走の息づかいを紙面を通じて感じながら今日も新聞の配達を待つ私である。

  この話しとってもいいんでないかい?・・・

  しかしながら考えようによっては長年にわたり、人様の力に頼って郷土紙を読んでいる私はとてつもない図々しい男との誹りを受けるのではないかとの思いも去来するのである。まあその時はその時ですべてを甘受しよう。

とにかく私は理屈ぬきで網走が好きなのだから。

                    平成13年7月18日 記

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