▽東京網走会の歴史(2)
=成ヶ澤 宏之進=東京網走会の運営の中で、特に留意した問題が5つありました。
第1は、地元に負担をかけないこと。
第2は、社会的、経済的な地位を意識しないこと。
第3は、会長、副会長他の役員は優越的な意識を持たぬこと。
第4は、年会費制を定めぬこと。
第5は、他人に迷惑を及ぼす行為は慎むこと。
以上の5点であります。
北海道関係の「ふるさと会」は、東京に約百あまりあります。その中で、地元の自治体が財政的に支援している団体も有ります。これは、必ずしも悪いことではないが、網走会は、経済的な面でも地元に尽くしこそすれ、極力、負担はかけないようにしようとの申し合せを守ってきました。
社会的地位、経済的立場にとらわれない問題もなかなか難しい。しかし、これにこだわると名もなき一般の人が出にくくなる。
ここは、「ふるさと」を懐かしむ気持ちのまま、丸みのあるこだわりなき集いにしなければならぬ、との幹事諸氏の考えであった。ことさらではなく、自然の尊敬はそれで良い。だが、社会的、優越的な立場を意識しては、「ふるさと会」の純粋さが失われるのである。内部の役員の立場も同様である。私は発足時に、正副会長も定めず、役員は全て世話人として伸びやかに進めていただこうとの考えを持った。しかし、これは若手の幹事諸氏の意向で通常の団体組織と同様になりました。
それでも、会長、副会長といえ、みな平等、実質は世話人なのである。指揮命令的な上からのモノ言い、強制は一切ないのであります。
年会費制を途中で止めた理由は、たとえ僅かでも年会費を取ると、加入者はぐっと減る。しかし、会であるから会費を頂くのは当り前で、網走会の行き方は変則であろう。今でも、会費制を主張する人もおり、一つの研究課題であろう。出来れば、持てるものは応分に、乏しき人も負担を感じない程度の費用が良いのかもしれない。
迷惑をかける行為は、組織の有るところに必ずついて回る問題であります。金の無心、意図的な迷惑勧誘など、かつて網走の名を語り、会員諸氏に迷惑をかけた事例がありました。これも「ふるさと」の者同士の相互支援は当然なので、形式的には決めがたい。要は、会員の良識に待つよりしかたがない。
幹事は、こういった諸問題を調整し、対策を講じつつ運営してきたものであります。
▽創立時の東京網走会(その経緯と性格)
=成ヶ澤宏之進= 東京網走会は、首都圏に在住する網走地方出身者、および網走ゆか
りの人々の親睦団体として、昭和53年10月20日に発足しました。1年前
に東京北見会が発足しており、網走市は当時企業誘致に懸命に取組
んでいた事情もあり郷土出身者によるふるさと支援と、中央の情報提
供を望んでいました。
当会は、親睦と同時にこのような市当局の願いを受けて創立されま
した。いわば、郷土愛の結晶である。初代会長は丹羽秀夫氏(飛島建
築設計事務所長)名誉会長は網走市長安藤哲郎氏。発足時の会員は
350人でした。
会員構成は網走出身の他、学校などの関係で網走と縁のある人も多
く参加し、特に東藻琴村は戦後分村した事情もあって、在京のふるさ
と会は特別に作らず東京網走会と一体となって進んできました。
女満別、美幌、常呂、小清水、斜里等の出身者も多くを数えます。
発足時の役員構成は名誉会長安藤哲郎、会長丹羽秀夫、
副会長舟木兼三、成ヶ澤宏之進、小池明、幹事長大久保幸夫、
常任幹事秋元正明、有末秀夫、松井実、山田わか、須藤孝子、
幹事石山昇、藤井けん児、佐野耕三、川口左元、佐々木憲、北川初、
鈴木秀良、神馬勝太郎、朝比奈仙一、朝比奈仙三、実方亀寿、
安藤秀幸、芦田博之、荒井英一、沢村光子、丹羽重博、樋渡強、
森俊彦、吉田正、土屋辰夫、福本為夫、寺田元、高橋安信、
野口久和子、松戸わか代、下谷昭子、福田正子、監査淺川行雄、
菅野邦男、顧問町村金五、堂垣内尚弘、新覚啓一です。
当時の会則を見ると、会の目的は郷土愛の高揚と親睦、ふるさとと
の交流、そしてふるさとの発展に寄与と定めていました。活動の内容
は、@親睦会、研究会開催A会員名簿の作成B在京北海道各地郷
土会諸団体との連携Cその他―など。年会費1000円(現在はない)で
親睦会、研究会等はその都度参加者が負担しました。
年1回の総会が活動の主軸で、ほか企業誘致の支援。昭和54年網走市
主催の東京での企業誘致に関する会合が催され、網走会会員は積極的
に支援協力をしました。 このような支援活動が実を結び、その後網走
への本州からの進出実績を得られたものであります。
創立総会は渋谷区千駄ヶ谷の修養団ビル8階桜門工業クラブ。その
後の総会会場は、市ヶ谷会館、ニッカ会館などが使われたが、第5回目
より今日まで、新宿の京王プラザホテルを会場としております。
発足時に最も注意したことは、特定の政治、宗教、思想などを入り
込ませないこと。特に政治に利用されればふるさと会は瓦解する。
地元出身の国会議員にも毎回案内状を出すが、その際はふるさと
の一員として懇談してもらうことを主とし、特別な待遇をしないこと
の了解を得るようにしております。東京網走会はこの純粋な理念
を持ち続けてきました。
(文章は創立時からの副会長成ヶ澤宏之進さんによります)
▽網走新聞から転載
■砂漠にオアシス(2000/10/22)=「きょうの話題」=
二十年以上もたつと、昔のことが忘れられてくる。三代目に志村幸雄会長(工業調査会社長)が就任したのを機会に、記憶をたどりながら東京網走会のことをまとめておこう。
東京網走会の発足を会則施行日とすると、昭和五十三年十月二十日になる。当時の網走新聞によると、網走市はこれからの都市づくりには東京や大阪など中央の情報収集が必要だとして、在京の網走市出身者に東京網走会の設立を呼びかけた。その年の六月七日東京・日本都市センターに二十五人が集まって世話人会を開き、結成へ第一歩を踏み出した。
それまで東京には、仲間内だけの網走人会があり、その幹事をしていた丹羽秀夫氏(飛鳥建築設計事務所社長)を会長に、成ヶ澤宏之進氏(総合調査研究所代表)らが中心となって広く首都圏在住の網走市出身者に参加を呼びかけることになった。
翌五十四年六月十九日に日本都市センターで第一回の総会を兼ねた懇親会(現在の「ふるさとの集い」)が開かれた。会員七十人と網走市から安藤市長や民間から佐藤久氏(網走新聞社長)らが出席した。
丹羽氏は昭和五十六年まで会長を務めた。この年の集いから会場が東京・新宿の京王プラザホテルになり、いまも続いている。金のない東京網走会が首都の一流ホテルで懇親会を開くことができるようになったのは、東京網走会のメンバーで京王電鉄本社部長から京王プラザホテル社長になったばかりの神野善司氏の尽力による。話題子が東京網走会に初めて出席したのは、このときであった。帰網後、「きょうの話題」(昭和五六年一〇月一日付)にこう書いた。
「会長の丹羽秀夫氏は『東京は自分の家から一歩外に出ると砂漠だ、といわれているが、ここは網走にゆかりのある者ばかりの集まりです。気をゆるしあって親睦を深めましょう』と挨拶した。四十三階の『ムーンライト』と名づけられたこの宴会場からは、眼下に東京の夜景が広がる。ラッシュ時とあって主要道路は車の洪水である。明滅するライトの流れは銀河のように輝く。なるほど東京砂漠か」
窓ぎわで一人グラスを傾けていた志村さんが、声をかけてくれたのを思い出す。再会というよりも、名刺を交換して初対面というのが本当のところだった。南ヶ丘高校新聞部の時代、網走新聞社に通った昔話を聞かせてくれた。砂漠でオアシスにたどり着いたような出会いだった。(肩書きは当時)