◎志村幸雄(前東京網走会長)の発明家シリーズ第三弾
◎四季・「島耕作」氏との対話・志村 幸雄
今年は昭和10年生まれの私たちが「喜寿」を迎える節目の年である。元旦付の本紙を見ていたら磯江波響(網走十七美会)、後藤田生子(網走市福祉協議会)両君の名前があったが、皆同じ仲間である。子供の頃から「人生50年」などと教えられてきた世代だけに、思いがけなく長寿の恩恵に浴しているわけだが、正直言っていささかくたびれてきたというのが実感だ。
だからと言うべきか、周りの人から「そんな歳には見えませんね」などと言われると、分別もなく嬉しくなる。つい最近も文化放送の長寿(年寄りの意に非ず)番組「団塊倶楽部」に出演した際、司会役で島耕作シリーズの漫画家の弘兼憲史さんから同じような言葉を頂戴した。弘兼さんは私より一回り若い、文字通りの団塊世代だから、我が方の劣勢は目に見えている。察するに、私を大学の先輩と持ち上げてしまったための、苦し紛れの発言だったのではないか。
若さの維持対策で意見が一致したのは、対象のいかんを問わず「好奇心を持ち続けること」だった。そこで期せずして、弘兼さん得意の音楽談義になり、私も恥ずかしながら初めて買ったLPレコードやその後の収集歴を話す羽目になった。ちなみに、最初の一枚は、月並みながらドヴォルザークの「新世界より」。今から40年近く前、当のプラハでアンチェル指揮、チェコフィルの演奏を聴いた翌日、目抜き通りのレコードショップで探し出したものだ。
番組内でその演奏に耳を傾けながら、ジャケットの紙質やデザインが当時の共産圏らしく見るからにお粗末なことが話題になった。だが、「これこそが長い人生の貴重な宝物」とおっしゃる弘兼さんに音楽愛好家らしい心の優しさを覚えた。(技術評論家)
◎四季・「歳々年々人不同」・志村 幸雄
われらが高校新聞局の仲間、才野光男君が1面下段のコラム「夏炉冬扇」の書き出しに「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」と書いてから早くも半世紀以上が経つ。早熟(?)の彼ならではの引用句で、当時はもう1つ実感が伴わなかったが、後期高齢者入りした昨今では、さすがに身に沁みて感じ入っている。この1年に限っても何人かの先輩・友人が鬼籍に入った。
前田完治さん。年は1つ上だが大学の同期卒業で、ドイツ語辞書の出版社、三修社の社長を長く務めた。日本青年会議所会頭などを経験した逸材で、出版団体の日本書籍出版協会では再販制度維持で共に闘った。
児玉清さん。俳優にして名だたる読書家。ブックフェアのメイン行事「造本装幀コンクール展」の審査委員長をお願いして6年ほどお世話になった。3年前に1年下の私が先に引退。を告げると、「私の方が潮時と思っていたのに」と応じられたのが最後の会話になった。
田中昭二さん。超電導科学の世界的権威で、東大助教授時代から公私にわたるお付き合いをしてきた。酸化物高温超電導の発見ではノーベル賞候補に擬せられたが、夢はもっと先の「室温化」にあった。87年8月、日経解説面の連載「超電導のインパクト」を共同執筆したのが、今は昔の思い出になった。
小田嶋寿一さん。新潟県有数のエレクトロニクス素材メーカー、ナミックスの会長で、一介の塗料会社を世界各地に事業所をおくグローバル企業に育て上げた。11月下旬のお別れの会ではICU時代からのジャズバンド仲間が心優しい故人を悼む調べを万感を込めて奏でた。(技術評論家)
◎四季・東京網走会のこと・志村 幸雄
10月13日には、地元から水谷市長らも出席して東京網走会総会が開かれる。昭和53(1978)年に発足しているので33年の歴史を刻んだことになるが、途中で1度休んでいるから、今年で32回目になる。
組織である以上、会則もあれば会員名簿もあるが、名簿に登録されている会員数が1300名と聞けば結構多いと思われるに違いない。だが一方では、実際の数がゆうにその2倍以上に達するとの見方があるから、想定外の人数と言わざるをえない。このことが、よもや網走の人口減少現象の引き金になっているとは思いたくないが、まったく無関係といえばウソになろう。
もっとも、会員資格は、会則にあるように網走出身者に限らない。網走を取り巻く周辺市町村の出身者でもよければ、血縁、職縁など何らかの形で網走にゆかりのある人でもかまわない。だから意外な人が会員になっていて、思わぬ出会いがあったりするのが、この会に参加する取り得である。
網走会の特異現象と思われることに、旧制中学以来の通学区域がかなり広域にわたっていたこともあって、他のふるさと会と重複した会員が多いことだ。その範囲たるや、斜里、東藻琴、女満別、美幌、常呂、佐呂間などに及び、相手側のふるさと会の会長になっている人も少なくない。
東京網走会は年に1度集まって網走在住の頃を懐かしむのが通り相場だが、意識するにせよしないにせよ、じわり「網走民族主義」のようなものが表出するのが常で、そこがいかにも網走的なのである。(技術評論家)
◎四季・爆問学問」出演記・志村 幸雄
NHK総合「爆問学問」に出演することになってビデオ撮りがあった。
テーマは、ノーベル賞のパロディー、裏ノーベル賞などといわれて目下人気上昇中(?)の「イグ・ノーベル賞」。9月30日が本年度の受賞発表日とあって、それに先駆けて2週連続のスペシャルで同賞の「人を笑わせ、そして考えさせる」実像に迫るのが狙いである。
出演者には犬語翻訳機「バウリンガル」の発明者、鈴木松美さんら日本人受賞者3人と私が「先生」として参加し、「生徒」の爆笑問題や伊集院光君らと自由奔放の討論を展開するというもの。
その内容はさて置くとして、この番組をご覧いただければ、学問の世界には常識を逸脱したり面白いことを見つけようと努力している人たちがたくさん存在し、その遊び心が知的探究心の向上や研究領域の拡張につながっていると得心されるのではないか。私が受賞候補に挙げた腸内細菌の研究者は、何と世界中から6千人のウンチを集め、そのデータベース化を仕事にしている。
得難い収穫は、日本の「笑い」の頂点にいる太田光君らと、まったくリハーサルなしにサイエンスが内在する笑いの要素や効用を論じ、それ自体が理科離れ現象の歯止めになるといった議論ができたことだ。彼らのただならぬ科学精神に敬意を表したい。
余計なことだが、放送日は9月22、29日(木)夜10時55分で、私は2回目に出演。(技術評論家)
◎四季・さまざまの「終戦日記」・志村 幸雄
8月を迎えるたびに戦時下(もちろん太平洋戦争の)の記録や日記類を読む衝動にかられるのは、戦中っ子だからだろうか。
手元にある高見順「敗戦日記」を開くと、8月15日の項に「新聞売場ではどこもえんえんたる行列だ。その行列自体は何か昂奮を示していたが、昂奮した言動を示す者は一人もない」とあり、永井荷風「断腸亭日乗」では「休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」と締めくくっている。
敗戦の受け止め方は人と場所によってさまざまだが、あたかもタイムマシンにかかったように一気にあの日に後戻りしてしまうのは、それだけ衝撃度が大きかったからに違いない。
作家が書いたようなものとは見方も質も違うが、私の父も同じような記録を残していることを「網走空襲の記録」(網走空襲の碑建立委員会編)で知った。多田姓の私の実父は生涯を教職に奉じ、終戦時には稲富国民小学校に在職していた。ところが、几帳面(?)な性格のしからしむるところか、校長職を務めながら、意外にも綿密克明な「学校日誌」を残していた。
紙数の関係で終戦の日の核心部分だけを引用すると、「正午、天皇陛下の重大放送あり。…平和の受託の放送にて、しばし茫然、感無量。夜来校者多し」とある。
短い文章だが、一介の教員として軍国主義教育に身を挺して尽くしてきたオヤジの心情が図らずも吐露されているように思う。
(技術評論家)
◎四季・映画館ゼロに思う・志村 幸雄
この紙面にある「プラザ」欄を見ていて思うのは、網走の文化活動が他の地方都市に比べても大変活発なことだ。エコーセンターが巨体(?)を現した当時は「身の丈知らずのハコ物」といった批判があったようだが、どうしてどうして、この北辺都市の「文化装置」として十二分に機能しているように思う。 その網走にして映画館が皆無というのは、いかにも情けない。私が高校生だった昭和30年前後には、映画館が3つ、演芸館(こんな名前だった)が1つ、合わせて4つもあったのだから、いくら人口減少時代とか他メディアの普及といった外的条件を勘案しても落差が大き過ぎる。 先日、高校時代の同期会があって、こんなことが話題になった際、「映画を観たくなったら北見に行く」という話を聞いた。それも1つの便法に違いないが、本来都市空間における文化的価値の充足度は、空気を吸うとか水を飲むのに似ていて、身近な場所で労せずして味わえることにある。その権利をみすみす手放してしまっては、極端な話、都市機能の放棄にもつながりかねない。 もう何年か前の話だが、私が大学時代に通った学生街の映画館が閉館の方針を打ち出した。すると学生たちが立ち上がって「閉館反対運動」を展開し、館主も前言を撤回した。
文化の享受は、時と場合によって闘い取るものであることを教えている。
(技術評論家)
◎四季・地元紙の効用・志村 幸雄
オホーツクふるさと連合会などの場でうらやましがられることの一つに「網走には地元紙がある」ということがある。人口減に活字離れ現象が重なって、今や北見などに限らず日本全土の中小都市から「地元紙」が消滅しつつあることを考えると、この事実は網走にとって得難い文化資産と言うべきだろう。
それも創刊時期が戦火の余燼消えやらぬ終戦直後というのだから見上げたものだ。網走新聞創業者、佐藤久氏から生前に恵贈された『わが生涯に悔なし』によれば、市制施行の昭和22年、購読部数の制約や用紙不足といった悪条件もものかは、「どの政党にもわずらはされる事なく権門にもこびず富貴にも淫せず清新にして明朗な新聞たらんことを」意図して創刊を決意されている。その志や壮にして、しかも未来志向である。
私事にわたるが、高校時代に新聞局の仲間と制作した「網走南ヶ丘高校新聞」が全国コンクールで上位入賞を果たせたのも、地元新聞社あったればこその成果だった。受験勉強もそこそこに新聞社の現場に出向いて組版や校正作業にかかわったことは、私自身のその後の職業選択を含めて、いい体験になった。学校新聞の編集権をめぐって当時の田村校長とやり合ったのも、今となっては懐かしい思い出である。そんな元気な仲間の一人に大場脩前市長がいた。
網走新聞が培った地元紙の伝統は今日、網走タイムズ紙に継承され、健全なジャーナリズム精神を発揮しているように思われる。地元文化育成のオピニオンリーダーとしての健闘を期待したい。
(技術評論家)
◎四季・北辺都市の文化性・志村幸雄
網走出身者は時折、いささか自虐的に「文化果つる地」といった言い方をする。だが、文化包丁、文化住宅といった薄っぺらな文化はともかく、この土地ならではの固有で土着的な文化は、むしろしっかり根付いている、と私は考えている。
前回書いた郷土博物館やモヨロ貝塚に代表される北方文化はもとより、近年の流氷まつり、道の駅に至るまで、その実体はなかなか多彩で奥行きが深い。
奥行きの深さといえば、最近お送り頂いた網走市立図書館刊行の「網走の図書館100年誌」によると、この北辺の小都市に、明治39(1906)年に早くも「網走図書縦覧所」として図書館施設が開設していることだ。道内でも「先駆的な公共的文化施設の誕生」だったというから見上げたものだ。
そればかりか、この話には「前史」があって明治20年代半ばにはすでに「網走書籍館」なるものが存在していたらしいのである。網走市史の編著者で網走地方史研究協議会会長だった田中最勝氏が昭和50(1975)年1月5日付の網走新聞紙上で明らかにしているもので、この書籍館たるや「キリスト教の伝道に関係があったものと考えられる」というのだ。何やら、この国の外来文化の根源に触れるような話で、心が熱くなる思いである。
売れっ子社会学者の内田樹氏は少し前に書いた『日本辺境論』の中で、日本文化に「辺境」という補助線を引くことで日本人に特有な思考のあり方が見えてくると指摘している。辺境のアイデンティティー(主体性)を説いた本として印象に残っている。
(技術評論家)
◎四季・「祝祭都市」網走・志村幸雄
日本を代表する文化人類学者で東京網走会の有力メンバーである山口昌男さんに『祝祭都市』(岩波書店)という著書がある。都市の魅力は光と闇が交錯する「祝祭性」にあり、それこそが人間の活動と文化の働きを深層において規定する都市の本質、と見る。
山口さんはその原型を昭和10年代初めの網走に見い出している。出生地は美幌町だったが、父上が飴の製造・卸しを営んでいた関係で、定期的に網走に出向き、リヤカーの片隅に乗せられて町内に散在する菓子屋を巡回する。目線の低い所から眺めた網走の心象風景は、コンクリートで外装した3階建てのビル(N金物店を指す)、桂ヶ岡の丘の上にそびえる円形ドーム状の瀟酒な屋根を持った郷土博物館…など、「異空間の真只中に迷い込んだ昂奮をいつも覚え」るのに十分だった。
なかでも、米村喜代衛氏が本職の理髪業をやめ全財産を投じて造った郷土博物館にはぞっこんの惚れ込みようで、「この建物に行く近道が急傾斜な坂で、この近道を死にものぐるいになって登って行くと、目の前に突如として白亜の博物館が現われるというこの瞬間に、私は魅了されていました」と振り返っている。
なんとも興味深いのは、網走高等学校(現在の南ヶ丘高校)時代、「この建物に住みつきたいと思って、3カ月ほど友人を介して頼み込んで館長の米村さんに下宿させてもらった」事実である。
こんな原体験が世界的な文化人類学者を育て上げたとすれば、北辺の中小都市、網走の文化インフラは見捨てたものではない。
(技術評論家)
◎四季・手書き派の憂鬱・志村幸雄
この原稿もそうだが私は「手書き派」である。ハイテクがらみの仕事に関わっていながら、なぜパソコンを使わないかとよく不思議がられるが、最適の自己表現手段は原稿用紙のマス目を一つひとつ埋めていくことと勝手に決め込んでいる。私の身近な人では、ノーベル物理学賞受賞者の江崎玲於奈氏や半導体の西澤潤一東北大元総長らが手書き派だ。
自己流を正当化するわけではないが、日本人はもともと手書き派だった。日本語は文字数の少ない表音文字のアルファベットと違って、表意文字の多い漢字を使う。おまけに漢字には、数が多いことに起因した同音異義語問題があるため、コンピュータ処理への転換が難しく、タイプライター、テレックス、ワードプロセッサーなどの普及が遅れた。
しかし逆に、文字を図形や画像と同じように取り扱うファクシミリや複写機などは開発着手時期も早く、欧米に負けない普及を見た。このようなアプローチの違いは、欧米の「キーボード文化」に対抗する「手書き文化」といってよく、この文化の違いが技術のありようを変えた。
ところが、その日本人がいまやキーボード派に転じたのは、いつにかかってコンピュータ技術の進化により「カナ漢字変換処理技術」を確立したからだ。もちろん、自ら作成したデータは、それ自体に誤りがない限り、そのまま活字にしても誤植が生じる心配はない。
誤植といえば、前回の拙稿には、いくつかの決定的なミスがあり、無様な結果になった。それもこれも私なりの乱筆があったればこそで、今後はしっかり校正をすることになった。後生、いや校正恐るべしである。(技術評論家)
志村幸雄(前東京網走会長)の著書
てくの・えっせい 東京網走会・会長 志村 幸雄
連載にあたって
当会のホームページ編集部から、内容の充実を図るため会長も寄稿せよ、との命である。内容が高まるかどうかは未知数だが、これも役目の一つと割り切って、月に一回程度、1,000字ぐらいの短文を出稿することにした。何かを書くとすれば、私のメシの種である技術のことになる。堅苦しいものにならないよう気を付けながら、日頃考えていることを気の向くままに書いていくつもりだ。
◎志村会長の新著(27冊目)
◎志村網走会長の新著(26冊目)
「誰が本当の発明者か」志村幸雄(技術ジャーナリスト)
出版本の世界には「発明本」というジャンルがあって、大きくサクセスもの物とノウハウ物の二つの流れがあるようだ。今回の著書は私にとって二冊目の発明本だが、二年前に上梓(じょうし)した『「発明力」の時代』(麗澤大学出版会)が発明の方法論に主眼を置いたノウハウ物なのに対し、今回の物はそのどちらとも少し違う。あえて言えばインサイド物ということになろうか。
もとより発明は人類究極の「知」の世界で、それ自体が時代を動かし、時代を分けるダイナミズムを内在している。その辺をいとも肯定的に書き上げれば「プロジェクトX」風のサクセスストーリーに仕上がる。だが発明の世界は同時に競争的な気風がみなぎっており、一皮めくると発明者としての個人や企業、学会、国家などを巻き込んで対立、確執、猜疑が渦巻く超絶望的リアリズムの世界である。発明の歴史は「人と金と裁判の歴史」と言われるゆえんだ。
実際、世界の発明王と言えば、誰しもエジソンの名前を思い浮かべ、彼の三大発明とされている白熱電球、蓄音機、映画のことを知っている。しかし、本書にも書いたことだが、どの場合にも先行発明や類似発明があり、エジソンは血で血を洗う特許紛争や裁判に悩まされた。また自動車はドイツ人に言わせるとベンツが1885年に発明したガソリンエンジン車が最初と言うことになるが、蒸気やガスエンジン車で先行したフランスは、自分たちこそ発明国だと主張して譲らない。
さらにワットと共に産業革命の推進者とされるアークライトは、水力紡績機の発明者として中学生でも知っているが、あのマルクスに言わせると「他人の発明の最大の盗人」(資本論)ということになる。
興味深いのは、大きな発明になるほど、それに関わり合う発明者が多く、特定が難しいことダ。ローマは一日にして成らずと言うべきか、一つの技術、一つの製品が完成するには技術の積み重ね(発明の連続性)や異なる人物による同時進行的な発明(発明の同期性)が避けられない。
知財立国、プロパテント(特許重視)時代と叫ばれる今日、発明の優先権を巡る裁判が十年戦争になることもあれば、企業出身の研究者が職務発明の報酬問題で古巣の企業と法廷で争うケースも珍しくない。幸い私は一ジャーナリストとして戦後の技術革新の渦中に生き、そんな場面にいくつも立ち会ってきた。IC、青色発光ダイオード、光ファイバー、炭素繊維、コンピューター、電卓など、本書の半分近くの章には私のそんな実見聞が生かされている。
冒頭に本書をインサイド物と言ったが、執筆に当たって私の念頭にあったのは、独創開発の重要性であり、発明こそ国力の源泉という視点だった。その意味で、本書が特に若い技術者や学生に読まれ、その意図をくみ取っていただければ望外の幸せである。
(2006年9月21日付け中日新聞と東京新聞に掲載)
【「失敗」を否定する文化】 志村 幸雄
世の中には「○○学」と名前の付くものが多いが、最近流行の「失敗学」もそのひとつ。工学院大学教授の畑村洋太郎氏が提唱し揚げ句の果ては「失敗学会」まで設立された。しかし、これは逆説的な言い方をすれば、日本ではそれだけ失敗に対する拒否反応が強く、正統性が得られていないからではなかろうか。
その根底にあるのは、「失敗を恥とする文化」である。米国の文化人類学者ルース・ベネディクトが第2次大戦直後にまとめた、日本文化論のハシリともいうべき『菊と刀』には、日本の「恥の文化」が欧米の「罪の文化」との対比で論じられている。罪の文化では、道徳の絶対的な規律が定められ、それに背くことは罪とされるが、同時に罪は懺悔(ざんげ)や贖罪(しょくざい)によって軽減される。
ところが、恥の文化では、過ちの告白はかえって恥をさらすことになり、人間はもとより神に対しても告白するという習慣はない。
注目されるのは、ベネディクトが恥の文化の淵源を日本社会の「集団主義」とそこに内在する「階層構造」に求めていることだ。日本の研究開発システムにこの種の制度や体質が温存されていることを考えると、問題の根は深い。
失敗を恥じる文化は、技術開発の場に「失敗を忌み嫌う風土」を醸成している。失敗を誤りとし恥とする文化は、当然のことながら失敗を否定的な側面からしか評価しない。結果として、失敗をマイナス点で評価する「減点主義」が正当化され、「悪しき成果主義」がはびこる。
もうひとつの懸念は、こんな状況の下で「失敗から学ぶ体質」が忌避されることだ。失敗の学習効果は、良い失敗にとどまらず悪い失敗にも期待できるはずだが、それを意図的に回避したり黙殺しては得るものは何もない。
なぜ失敗から学ばないかについて、柳田邦男氏は近著『この国の失敗の本質』の中で、「文化的な欠陥遺伝子」の存在を指摘している。その結果、正面から失敗の原因を議論しようとすると、組織内で白眼視され、孤立状態に追いやられてしまう。結局は「起こったことは仕方がない、今から蒸し返す必要はない」と封印されるのがオチ、というのだ。
私どもは「失敗は成功の母」という教訓を教わったはずだが、それが形骸化しては空念仏か元の黙阿弥に終わってしまう。
(2004/09/06)
【評価システムの欠如】 志村 幸雄
最近は日本からもノーベル賞受賞者が相次いでいるが、問題はこれらの研究者の業績が日本国内で必ずしも正当に評価されていなかったことだ。ノーベル化学賞受賞の田中耕一さんはその良い例で、受賞の報が伝えられた時、「田中さんって、誰」という声が上がった。実際、20年近くの研究生活の中で、国内での受賞歴はわずかに日本質量分析学会の奨励賞だけだった。氏の業績である質量分析の新手法を実用的な装置に仕立てたのも欧米のメーカーだった。何とも情けない話である。
こんなことを考えていたら、作詞・作曲家の小椋桂さんのコラム(日本経済新聞夕刊「あすへの話題」)が目についた。一読すると、小椋さんにとって、日本の音楽会でのアンコール習慣は大変ご不満のようなのだ。終演を迎えて本当に感動を覚えたのならそれも良いが、そうでない場合はしかるべき反応を示すのが本来の姿だ。「それがどう考えても大して素晴らしくもなかった内容なのに、観衆からアンコールやカーテンコールの拍手が鳴り響く」のは正当な評価とは言い難く、これは「(日本の)観客に評価の主体性がない」からだ、と断じている。
この問題提起は、田中さんの評価の場合と表裏一体をなすもので、要するに評価者側に主体性が欠如しているのである。悪いのを悪いと評価できないのは、逆に良いものを良いと評価できないのだ。事の本質を捉え、真偽をはっきりしなければならない科学技術の世界で、かりにこんなことが罷り通っては国家百年の計にも影響しかねないことになる。
心配なのは、評価の主体性の欠如が日本人研究者の業績の過小評価や死蔵化につながりはしないかということだ。日本を代表するある研究者は、「日本人でありながら日本語の論文を信用せず、英語なら有り難がる」と話していた。文化大革命下の中国では、外国技術を崇拝する「洋奴主義」と、それを後追いする「牛歩主義」が批判の対象となったが、同根の問題だ。こんな風潮が高じたのも、日本には研究の独創性やユニークさを主体的に評価するシステムがないからに違いない。
主体性の欠如が付和雷同型の無責任な評価や、仲間に甘いえこひいき型の評価を生み出しているのも由々しい問題だ。一例として文部科学省の科学研究費補助金は公募したものを専門家の審査で採否を決めるが、以前から一部国立大学への偏りが指摘されている。こういう仕組みを抜本的に改めることも構造改革の重要テーマであることを行政当局や学界関係者はとくと認識すべきである。
(2004/06/11)
【発明対価200億円の虚実】
青色発光ダイオードの発明者である中村修二氏(米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授)の発明対価をめぐる裁判で、東京地裁が元勤務先の日亜化学工業に200億円の支払いを命じる判決を下して話題になっている。その額が型破りの数字だけに驚嘆の声や賛否両論が渦巻いたわけだが、研究者はおおむね「歓迎」、産業界は「困惑」といったところか。
もとより発明の対価は、特許法35条で従業者が職務上の発明の特許権を会社に委譲した場合、「相当の対価」が受けられると定められている。今回の判決では、発明によって会社が得る利益1208億円に発明者の貢献度の50%を掛けて604億円と算出している。それが200億円になったのは、原告側の請求額がその額にとどまっていたからだ。
産業界の懸念は、金額の大きさもさることながら、その対価がいくらになるかの見当が付けにくいことにある。現に今回の判決では、日亜側の生産が本格化した1994年から特許期間満了の2010年までの売上高を1兆2086億円と算出、それを基準にして想定額をはじき出している。
本当にそうなのか否かは、神のみぞ知るである。技術の世界ではしばしば新技術の登場により旧来の技術が一夜にして駆逐されてしまう。また、強力なライバルメーカが出現すれば一気に売り上げが減少し、市場からの撤退も余儀なくされる。
貢献度の評価にしても、今回の判決では「個人的能力と独創的な発想により世界中の研究機関に先んじて世界的発明を成し遂げた」として50%と想定しているが、共同研究者の多い日本型の研究開発システムでは周りの“ミニヒーロ”達への配慮が問題になろう。
というわけで今回の判決には問題点が多すぎるが、日本企業の研究者の処遇改善に一石を投じたという点で評価される。
資源に乏しい日本は「科学技術でメシを食う」以外に道はなく、そのためには独創発明、独自技術の創出こそが最大の競争力となる。しかし、年功序列・横並び型の企業組織に慣れ親しんできた日本企業の多くは「研究・技術者だけを特別扱いするのはおかしい」、「スター研究者より集団的対応の方が大事」といった固定観念を持ち続けている。その最も象徴的な“事件”が特許出願時と成立時に中村氏に払われた報酬総額が2万円という一件だ。
若い有能な人材が科学技術の世界に魅力を感じ、インセンティブを持って研究活動に取り組むためには、古い洋服はぜひ脱ぎ去ってもらいたい。
(2004/03/10)
【新年のご挨拶】
東京網走会の皆さん、明けましておめでとうございます。
政府や日銀の公式見解では、不況のどん底にあった日本の経済もようやく回復軌道に入ったとしていますが、地方へ出かけてみますと、不況色いまだ癒えずで、本格回復への道のりは遠く険しいと実感しています。網走新聞のホームページなどから隙間見る網走市の財政事情も、ご多分に漏れず大変厳しい様子で心配しております。
しかし、その一方では大場市長の目指す「自立する地方経済づくり」が起業支援などへの取り組みに見られるように、少しずつ進んでいるようです。時代の「変化」を「好機」にしながら、この苦境をぜひ乗り切っていただきたいものです。
変身する網走といえば、昨年オープンした「数学ワンダーランド」が私の身の回りでも話題になっています。つい最近、「大学出版部協会」の創立四十周年記念式典の席上で耳にしたことですが、同協会が昨年夏、札幌で研修会を開催した際、わざわざ網走まで足を伸ばし、嘉多山にあるこの新施設を見学したそうです。元はといえば私の実父(多田幸吉)が十年ほど勤務していた嘉多山小中学校の校舎ですから、感慨もひとしおです。同じ土地にハイテク志向で国内最大手の電装品メーカー、デンソーのテストセンターが完成したことも、技術がらみの仕事に携わっている私には心を揺さぶられるものがあります。
さて、東京網走会にとって今年は創立二十五周年という新しい節目を迎えます。志に燃えた何人かの先輩達によってスタートした本会も、四半世紀を経た今日では約千三百名の会員を数えるに至りました。網走との往来は空路、連絡はEメールの時代に「ふるさと会」的思考はいささか古着と化した感がありますが、時代は変わってもやはり「ふるさとは遠きにありて思うもの」なのでしょう。
今年度は役員一同が二十五周年にふさわしい催しにしようと構想していますので、会員および地元の関係者の皆さんにはまた何かとお世話になるかと存じます。よろしくお願い申し上げる次第です。
(2004/01/8)
【「米欧回覧実記」の教訓】
「米欧回覧実記」は明治初年、岩倉使節団に随行した久米邦武のてによってまとめられた全100巻に上る欧米視察報告書である。通読するのは少したいへんだが岩波文庫から全5冊で刊行されているので、読もうと思えば簡単に入手できる。その大著が最近、内外の研究者の協力で英訳され、日本翻訳出版文化賞を受賞した。折に触れて頁をめくってきた読者の一人として、この快挙を喜びたい。
一読して感じることは、今から130年前の日本人にとって欧米諸国は文字通り「絶域万里」の遠い国だったということだ。だが、近代化を至上課題にした彼らは、貪欲なほどに欧米の国政や産業経済、教育機関、軍事組織などに触れて、先進文明を吸収した。
回覧実記はその使節団の1年10ヶ月にわたる視察旅行を旅程順に記述しているが、久米の鋭い視察力と卓抜な表現力が相まって、「当時の紀行記録としては世界に例を見ない」とまで評されている。
感心するのは、歴史学者としての久米が単に専門領域にとどまらず、科学技術の世界に踏み込み、その紹介に多くの紙数を費やしていることだ。本書を読み進めていくと、専門技術者でもなく技術官僚でもなかった久米が、欧米の先進的な科学技術や新産業の展開状況を実に精細に描き出していることに気づく。
その対象も、当時の先端技術だった電信機、蒸気機関、鉄道、飛行船はもとより、紡績、製鉄、造船などの産業に及び、それを分析し、記録する目も確かである。食品工場を訪ねて熱管理の運用に着目したり、ワットの蒸気機関を賞揚しながらも、先行発明としてニューコメン機関があったことを指摘しているのは、そのいい例だ。
察するに久米の胸中には一貫して維新後における日本のかたちと針路という一大命題が宿っていたようだ。ロンドン訪問の感想として、「倫敦ハ世界ノ天産(天然資源)ヲ輸入シテ、自国ノ製作力ヲ加ヘテ、再輸入スルヲ主意トス」と述べた後「将来日本ニ於テ、欧米輸出ノ途ヲ開カンニハ、此ニ注意ヲナスコト緊要ナルヘシ」と的確かつ先見性に富んだ私見を付け加えている。
維新という時代の転換期が生んだ逸材に、今日なお学ぶことは多い。
(2003/10/28)
【なぜ「ハイテク貧乏」なのか】
ハイテク製品といえば、字義通り高技術・高付加製品だから当然高収益が得られるはずだが、現実には必ずしもその通りに事が運んでいない。日本の産業界を代表する大手電機が軒並み赤字を出しているのはその証左である。
理由のひとつは、ハイテク製品の多くは成長市場であるだけに参入企業間のシェアの争いが激しく、大量投資・大量生産による価格競争が常套手段と化していることだ。理論的にも、累積生産量が多くなるほどコストが低くなるという「ラーニングカーブ(習熟曲線)則」がこの種の対応に正当性を与えている。もっとも、それで売り上げが伸び、いくばくかの利益が得られるのならいいが、実情はさに非ずなのだ。
そのいい例として、半導体用樹脂封止材料で世界トップシェアの日本企業が、先年、工場の爆発事故で生産不能に陥った。工場の早期稼働を求める内外のユーザーの声に対して、同社の責任者は「あまり利益の出る商売ではなくなっているので、資金の投入が難しい」と答えて、世のひんしゅくを買った。事の真相を明かすと、過当な値下げ競争で内外の競合メーカーを撤退に追いやったのは良いが、自らも採算の取れない商売に成り下がったのだ。
21世紀を迎えた今日、大量生産の時代は終わったといわれるが、工業先進国入りを目指すアジア勢は、低賃金労働と「後発性利益」を生かして量産・安値競争に出ている。かつては日米間などで業界秩序の維持が話し合われたことがあったが、今ではそれを望むことが難しくなっている。
ハイテク産業はよく「ハイテク貧乏」という言葉が自虐的に使われるように、技術革新の成果の表れとして価格破壊が進む。DRAMの価格が世代のいかんを問わず3ドル程度に収斂(しゅうれん)するという「πルール」はそのいい例だが、キロ(K=1000)ビット時代ならいざ知らず、メガ(M=100万)ビット時代にまで適用されるとすれば問題である。
技術革新により製品価格が下がる利点は評価しなければならないが、過ぎたるは及ばざるがごとしで、技術開発へのインセンティブやハイテク市場への参入意欲を減退させてしまっては元も子もなくなってしまう。
(2003/08/25)
【カタカナ術語の氾濫】
最近、外国語をそのままカタカナに置き換えた「カタカナ語」の氾濫が問題になっている。実際、手元にある自動車関係の本を開くと、「成形しやすいルーフサイドレールのアウター部分やリヤのフロントサイドメンバーに...」、といった一文がある。この種のカタカナ述語は、車の専門家やマニアならいざ知らず、一般の読者にはほとんど理解の及ばないところであろう。
一般書でこうだから、専門書となると推して知るべし。先端技術の一角を占める人工生命の本を開くと、ウェットウェア、セルラーオートマトン、アブダクションといった用語が次々と登場する。これでは日本文という形式を取っていても、実質的には英文で書かれているのと大同小異である。
このようなカタカナ術語氾濫の背景には、外国語の無批判な受容という問題がありはしないか。科学技術をはじめとした多くの学問は欧米発のもので、それが術語を含めてそのまま日本に移入される。新規の用語があれば本来なら日本語への置き換え作業が進められ、当の工学や技術の咀嚼(そしゃく)も進むはずだ。ところが、専門家同士で分かればよい、横文字の方がスマートでくちあたりがいい、といった安易かつ独善的な考え方で、カタカナ語のまま通用してしまうのだ。
振り返って、江戸中期に「解体新書」の翻訳にあたった杉田玄白らは、和蘭辞典など入手するすべもなく、はじめのうちは「シンネン(=精神)」などという抽象的な用語に出くわすと途方に暮れた。それが1年も経つうちに「1日に10行も...格別の労苦なく解し得るやうにもなりたり」と端倪(たんげい)すべからざる翻訳能力を体得する。
科学史家の村上陽一郎氏によれば、漢字圏の科学技術用語の65%は日本製だそうだ。その取り組みに日本人の科学技術能力とアイデンティティ(主体性)を読み取ることができるが、今日ではそれが衰退への途を辿っていると言うことなのか。
(2003/06/25)
【模倣と独創】
私の大学時代、同じ学部の同じ学年に寺山修司や山田太一がいた。なかでも詩人で劇作家の寺山は、学内で上演された一幕ものの処女戯曲「忘れた領分」が好評を博するなどして、早くも鬼才ぶりを発揮していた。今年はその寺山の没後20周年になるという。歳月人を待たず、というが時の流れは早いものだ。
寺山には毀誉褒貶(きよほうへん)が多いが、数年前に出版された田澤拓也著「虚人寺山修司伝」(文芸春秋)を読むと、「マッチ擦るつかのま海に霧深し身捨つるほどの祖国はありや」という彼の代表作には実は本歌があって、富澤赤黄男の「一本のマッチをすれば湖は霧」という句の盗作と決めつけられている。田澤氏は別の機会にも、寺山の「わが天使なるやも知れぬ小雀を撃ちて硝煙嗅ぎつつ帰る」が俳人の西東三鬼の句からの剽窃(ひょうせつ)だと指摘している。
文学作品や絵画などの創作活動では、つねにオリジナリティーが問われる。これを無視すれば一個の作品として芸術的な価値を認められないし、時と場合によっては著作権法によって責任を問われる。それだけに他人の作品が模倣かどうかは軽々に論ずるべきでない。
模倣といえば、印象派の代表的画家エドウァール・マネの名作「草上の昼食」が、16世紀の作品であるジョルジョーネ作「田園の奏楽」やマルカントニオ・ライモンディ作「パリスの審判」の構図にそっくりとの見方がある。確かに、3人の男女が草原にもつれ合うように戯れている姿は、そう指摘されても仕方ないほど似ている。
それでは、寺山やマネの作品は、先人の単なる模倣・剽窃(ひょうせつ)かといえば決してそうではない。いずれの場合も、表現者としての感性のひらめきや美的充実感に溢れ、芸術作品として広く認知されているのである。前記マネの作品が後年、モネやセザンヌ、ピカソらの作品の下地になったのも、一個の芸術作品としてそれだけ完成度が高く、訴求力が強かった